- 震災当時、窯はどんな状態だったのでしょうか。
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私たちの窯は山の中というか自然公園の中にあるんですけど、
当時は家の近くの沼に白鳥が来ていまして。
その鳥たちがやたらと騒ぐなと思っていたら、突然大きな揺れが来ました。
数分間の揺れの後、窯を見に行ったところ、
3つあるガス窯とレンガで組んだ登り窯のそれぞれに
大きな損害が出ていました。
- そうすると、窯の稼働は当然ストップしてしまいますね。
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窯が壊れてしまったことで、ろくろで器の形を作ることはできても、
肝心の焼くという作業が、数カ月にわたって、
一切できなくなってしまいました。 - 作ったものをためておくだけで、焼けないという状況ですね。
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しかも、余震が多くてね。最初の頃は30分に1回とか1時間に1回。
夜中なんかも2~3時間に1回は
震度3、4、5、たまに6というのが来ていたので、
器を作ってもひっくり返って割れるだけのような状況が続きました。
やはり窯を直さないと、
焼き物屋としての作業が半分以上できないわけですから。 - その時はどんな心境でしたか?
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子どもの頃に起きた宮城県沖地震に比べて
ライフラインの復旧は早かったんですが、
窯自体の被害が大きかったので、これを直すには時間がかかるなと。
窯を修復する業者に連絡しても、その時は東北中、
さらには北関東の窯元さんにも被害があったので、
直すのも順番待ちだと言われまして。
半年以上は自分たちの窯を直すすべがなく、途方にくれましたね。
- 待っているしかない状況だったのですね。
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ただ、そうも言っていられないので、行政に相談したり、
修復業者や材料の情報収集に動いたんですけど、
結果お手上げという感じでしたね。
そもそも、移動するためのガソリンも手に入らない状況だったので。 -
そんな時、「器の絆プロジェクト」の
お話があったということですね。 -
はい。行政に掛け合ってみても、個人でやっている焼き物屋は、
いわば個人業のようなもので、
国の援助を受けるのは難しいと言われたところでした。
こんな小さな窯元に企業が手を差し伸べてくれるものかなと。
そんな話が本当にあるのかと、ちょっと喜びで震えが来るような感覚でしたね。