- 被災時の状況から教えていただけますか。
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津波による海水がある程度引いて、被災現場に入れるようになった時に、
あまりにも凄まじい光景に言葉が出なかったですね。
これからどうしようと、妻と二人で茫然としました。
家を流されたり、亡くなられた方もいましたし、ここから復興しろ、
人生を取り戻せと言われてもなかなか前に進む気力が湧き出ませんでした。
心の中で整理できるまで半年はかかりましたね。ここは私が生まれ育った土地なんです。
幼少の頃から、いろんな思い出が詰まっていて、
陶芸という将来の道を決めた場所でもあります。
そんな大切な場所が震災で一瞬にしてなくなってしまいました。
正直、地震の揺れの時は、さほど被害はなかったんです。
作品が2、3個割れたくらいで。
でも、その後の津波が予想をはるかに超えていました。
1年ほどは、先のことは何も考えられなかったですね。
主人と二人、黙々と津波によって破壊されたものを片づけるだけでしたね。
当時は、「まずは今日を生きましょう」と思っていました。
明日以降のことを考えると、生きていくのが辛かったんですよ。 - 窯はどういう状況だったのでしょう。
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今から30年前に作った小さな窯なんですが、
その窯を取り囲んでいる小屋が、
あれだけの大きな津波に流されなかったんです。
津波の最高到達は2m30㎝もあって、周りでは数百軒の家屋が流されたのに、
それでも残りました。まるでシンボルのように。
でも、海水を被っているから、使い物にならないんですよ。
これを再築すべきかどうかも、最初は考えられなかったですね。 - その当時のご心境は?
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すべて失ってしまい、もうダメだという状況だったんですけど、
私は心のどこかで、
こんなことで負けてたまるかって気持ちがあったんですよね。 - その気持ちを支えに、復興に向けて動かれた?
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少し落ち着いてから、地元の河北新報さんとかTV局にも働きかけて、
記事にしてもらったんです。
そうしたことで、多くの方から励ましの言葉はもちろん、
使わなくなった電動ろくろや陶芸機材の寄付など、
さまざまな応援をいただきました。
ありがたいことに、陶芸に関する補助的なものは集まってきたのですが、
肝心の窯がないわけです。 - そんな時に、AGF®から「器の絆プロジェクト」の提案があったんですね。
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はい。2012年の暮れくらいに、連絡をいただきました。
私も主人も声が出ないくらいの喜びでしたね。「窯が来る!」って。
あの時の感激は忘れられないです。昔から陶芸には、「1土、2窯、3細工」という言葉があるんですね。
細工っていうのは技術力ですから、私たちが生きている限りはなくならない。
土も残っている。もうひとつの要である窯が来ることで、
3本柱が揃うわけですよ。 - そういった協力があって焼き物が復活できたんですね。
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そうです。人間って、すべて失ったときに、まずは食べるもの。
そして、休息を取れるところ、眠る場所が欠かせませんが、
私たち陶芸家にとってはそれと同じくらい、
焼き物に触れることが大事なんですね。
20歳の時にこの道に入ってから、
土をいじらない日、筆を握らない日はなかったんです。
それが丸一年できなかった。
何のために生きてるんだろうって気持ちになっていましたからね。 - 希望通りの窯が復活したのですか?
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はい。東北は冷え込むので、
窯のレンガも厚くしないと陶器を冷却する時に割れてしまうんです。
そういった条件を提示しても、
「加藤さんがほしい窯を作ってください」と言っていただいて。
ああ、今までと同じ焼き物が焼けるんだって、
震災の辛さがどこかに行ってしまうくらいの喜びでした。 - 窯の修復によって、いっそう前向きになれたと。
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先ほどもお話ししたように、食べる、寝るは人間の基本ですが、
くつろぎというのも実はとても大事なことなんですね。
被災地でも寒い思いが強かったんですけど、温かいコーヒーを、
温もりある器でいただくことで、手にもその温かさが伝わってくるんです。
見て、味わって、香って、触れて…、と、五感に訴えることで、
心に安らぎをもたらしてくれるもの。
私たちの仕事は、
どちらかというとそういったくつろぎを与える仕事でもあるので、
そこに目を付けてくださったことがありがたかったです。